パイレーツオブカリビアン最後の海賊イオンシネマ新百合丘

ヨアヒムローニング

エスペンサンドベリ

パイレーツオブカリビアン最後の海賊

最新作のパイレーツオブカリビアン最後の海賊を観終えた時、このシリーズは一貫して親子の関係を主題にしてきたのだと今さらながら気付いた。

最後の海賊の冒頭では、ヘンリーターナー(ブレントンスウェイツ)が、父ウィル(オーランドブルーム)の救出を誓っていたように、親子の関係が物語を駆動させる重要な動機になっていた。

そもそもウィルターナーは、デイィジョーンズによってフライングダッチマン号に幽閉された父ビルを救出しようとしていたように、親子二代に渡って父の呪いを解く事が息子にとっての義務となっていた。

ワールドエンドでは、エリザベススワン(キーラナイトレイ)の身代わりとなってフライングダッチマン号に残る決断をしたウィルに、息子が存在した事実をラストに配置していた。

その息子が成長したヘンリーであり、彼もまた父を救出する為に、その呪いを解く方法を捜索する旅に出た。

親子と言えば、三代に渡るターナー家に限らず、生命の泉ではアンジェリカと黒ひげが親子だったし、このシリーズの主人公であるジャックスパロウにも父ティーグが存在した。

エリザベスにもまた父のスワン提督が存在したように、このシリーズには一貫して親子の関係が投影されていた。

そこでは単に親子が登場するだけでなく、その親子が引き離される状況が到来する事によって、引き離された親子が再会を目指して努力する姿を描写していた。

とは言うものの、親子の関係には登場人物によって濃淡があった。

ジャックスパロウと父ティーグの関係は全くの謎であり、息子が危機に陥った際には、何の前触れもなく父が現れて息子を危機から救出するのだが、神出鬼没のティーグに限っては実在するのかどうかも疑わしかった。

アンジェリカと黒ひげの関係もまた微妙であり、娘は父に対して親愛の情を抱いているようだが、父の黒ひげは生命の泉を前にして娘を差し置いてまでも永遠の命を得ようとしていたように、いざという時に裏切るパターンもある。

それに比べれば、ターナー家の親子の絆は深く、自分の命を危険に晒してまでも父の命を助けようとしているのだから、それが物語を駆動する動機として機能するのも理解できる。

今回の最後の海賊では、ターナー家やスパロウ家だけでなく、もう一つの家族が登場していた。

それはネタバレになるので控えておくが、双方にとって親子である事は物語の終盤に至るまで自覚されてはいなかった。

このシリーズが一貫して親子の関係を物語の主題にしていた事を考えると、複数の親子関係が作品の内部で複数の物語を同時進行させる事によって、それだけ物語が重層化される構造になっていた。

親子関係と同時に復讐の主題もシリーズに一貫する主題であり、キャプテンバルボッサ(ジェフリーラッシュ)とジャックスパロウは、1作目の呪われた海賊たちから因縁の関係にあった。

それが3作目の生命の泉になるとキャプテンバルボッサは黒ひげに対して復讐を実行していたし、2作目のデッドマンズチェストでは、デイィジョーンズのティアダルマに対する複雑な感情が復讐という形となって現れていた。

最後の海賊では、スペイン艦隊の将校だったサラザール(ハィエルバルデム)が、若き日のジャックスパロウに魔の三角海域に追い込まれて沈没させられた事から、死者となった今もなお彼に対する復讐心を抱いていた。

このシリーズは呪いを解く為のアイテムを探す事が登場人物にとっての最大の動機になっており、最後の海賊ではポセイドンの槍を発見する事によって、ウィルの呪いが解けるだけでなく、サラザールもまた死者から人間に復活する事ができた。

このポセイドンの槍を巡る争奪戦が繰り広げられる過程で、知られざる親子の関係が物語を盛り上げる手段として機能する。

その鍵を握るのが、ポセイドンの槍の在処を示す地図を持っていた天文学者のカリーナスミス(カヤスコデラリオ)だった。

彼女は父から受け継いだというルビーが表紙に付いたガリレオガリレイの日記を基にヘンリーをはじめとするジャックスパロウたちをポセイドンの槍の在処へと案内した。

今回はイギリス海軍東インド貿易会社などの国家権力は大して物語には絡んでは来ず、結果的にイギリス海軍を交えたジャックスパロウとサラザールによる三つ巴の戦いになるのだが、もっぱらサラザールのジャックスパロウに対する復讐心が物語を駆動させていた。

このシリーズでは毎回処刑シーンが登場しており、今回もまたラストミニッツレスキューの要領でジャックスパロウはギロチンから逃れていた。

処刑から逃れるシーンでは決まってスペクタルが展開されるように、まるでサイレント映画のようなスラップスティックコメディが成立していた。

特にセントマーティン島での銀行のオープニングセレモニーでは、まるでイリュージョンのように金庫の中からジャックスパロウが登場し、銀行ごと馬で引いて街中を疾走するというバスターキートン並みの大仕掛けが展開されていた。

引用ついでに指摘しておくと、死んでいるはずのサメが海中で動き出し、ヘンリーやジャックスパロウに襲い掛かる光景は、スピルバーグジョーズを思わせた。

それだけではなく、セシルBデミルの十戒を思わせる海が割れるシーンが登場していたように、スペクタルにはクラシックな装いが施されていた。

再び親子関係へと話題を戻すと、そのなんともウェットな関係が、結局は自己犠牲の精神を物語に導入する事で満足しているように感じらた。

そうした手垢にまみれた感動を物語の展開に用意する事が、ジャックスパロウ及びシリーズの精神に反しているように思えてならなかった。

ジャックスパロウという軽薄なキャラクターを生み出したシリーズにおいて、親子関係に基づいた自己犠牲の精神を感動の手段として用いる方法が、物語からユーモアを奪っていた。

これまでのシリーズの中で最もユーモアの少ない作品は、父の呪いを解こうとするヘンリーやジャックスパロウに復讐しようとするサラザールの動機を律儀に説明し過ぎていた。

ジャックスパロウとティーグの親子関係にウェットな点など微塵もなく、ましてや自己犠牲の精神など発揮されようがない。

シリーズ開始から14年も経つと、恋愛の要素はジャックスパロウ本人ではなく、世代的には息子に当たるヘンリーへと受け継がれており、今回に限ってもジャックスパロウには浮いた噂の一つもなく、もっぱらヘンリーとカリーナの関係にラブロマンスは集中していた。

どさくさまぎれのセクハラに至るジャックスパロウの魅力は、今回の作品では封印されていた。

つまり、今回の作品は全体として真面目なのだ。

キャプテンバルボッサにしても何度も裏切ったり、寝返ったり、仲間でさえ騙したりしてきたはずが、今回だけはある事情の為に柄にもない事をしてしまった。

ガーディアンズオブギャラクシーリミックスでも感じた事だが、親子関係における美しい自己犠牲の精神を称揚する事が、近年のアメリカ映画の流行りなのだろうか?

それによって作品や登場人物の軽薄さが失われる事の方が、よほど大きな問題に違いない。